とうとう12月……1月はどうしてたっけ。
このブログにしろ個人日記にしろ半端な記録習慣というのも問題で、
記してしまうと安心して忘れてしまうため、記憶保持が偏ります。
認知症の予防として「『あれ(アレ)』を避けよ」というのを聞きます。
ようするに───
・「何だっけ、あれの名前は」
・「頼んでおいてアレだけど」
───本来は当てはまる語句があるのに「あれ」の一言を宛がう傾向です。
また、度忘れしたものを思い出せないままにするのも良くないとか。
ちょっとした記憶を掘り起こすよう努めないと、本当に思い出せなくなる。
こういう時、周囲にいる者が安易に正解となる発言をしてしまうと、
脳が情報検索をやめ、結果的に検索機能が低下するとも聞きます。
そのため私は出来るだけ「待て、云うな」としているのですが……。
そこで少々疑問に思いました。
冒頭で「(日記に)記すと安心して忘れてしまう」としたものの、
日記を読み返せば、書いていないことまで思い出せて追記ができるほどで、
記憶の古さによるものの「忘れたまま」ではないことが分かります。
では日記に頼らず自力で記憶を保持した結果、思い出せない場合は?
日記などのような"引き金"がなければ思い出すこともないわけで、
何らかの引き金を得ない限り「あれ」ですらない「何か」になるのでは。
20年前の出来事を忘れており、何も引き金がないまま現在に至り、
細かいことは今でも思い出せずに居ます。
それを「20年前には日記をつける習慣がなかったから」とした場合、
当時を思い出す引き金を日記に頼れず、ほかの何かが必要になるわけで、
このまま引き金を得られずにいれば、いずれ完全に忘れるのでしょうか。
疑問というのは、引き金が「思い出すための安易な手段」と化していて、
思い出すための努力になっていないのだろうか、ということ。
つまり日記の習慣がもたらす記憶保持への影響です。
……さっさと忘れたほうがいいこともあるけど。
- 2017/12/01(金) 23:59:00|
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