母が実家の片付けで古いアルバムを整理したので、見てみました。
あられもない姿の私が、さらに小さい弟と一緒に撮られた頃の写真で、
妹は母のお腹に居て、まだ生まれてすらいません。
一部の写真に、子供時代の近所が写り込んでいました。
この景色は失われ、今や写真か記憶の中にしかない。
失われ始めたのは携帯電話のカメラ機能が標準装備になる前の話。
いわば「写真を現像してもらう」という習慣が薄れゆく頃の手前です。
現在ほど携帯電話の撮影機能が優れていなかった時期ですし、
ちょっとした撮影というものは"趣味"の世界でした。
アルバムの内容は、そのさらに十数年前となります。
「ここに三角形の土地があって───夾竹桃があったなぁ」
「そんなのあった?」
「あったはず」
子供の視点と大人の視点は違います。
私が景色で記憶していることに対して母は人間関係でした。
誰それが救急車を呼んでくれたとか、お祝いをくださったとか。
現在は、あの角を曲がったところに……という記録が残る時代です。
鮮明な画像の連続で、記憶と記録がリンクできる。
なんと羨ましい。
一方、なんとか記憶を手繰り寄せて思い出せた時の喜びは、
生きてきた時間の長さが作り出す、一種のボーナスみたいなものです。
思い出せる過去があり、その過去に恵まれるのは幸福の一形態でしょう。
あの大きな建物が立ち並ぶ敷地を、私は一直線に駆け抜けたことがある。
あの場所からは見えないはずの空を、私は見上げたことがある。
あの公園に建っていた家へ行って、友達と遊んだことがある。
それにしても歳をとったなぁ。
- 2019/09/04(水) 23:59:00|
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