自宅で友人と話している最中、何年か前の写真データを探すことになり、
その中で20代だった頃の私が写ったものを見つけました。
「これ20代くらいだな」
「すげぇ、七片これ別人だよ」
私は顔から太るので人相が変わりやすいらしいです。
「顔の贅肉を落とすなんて難しいよな」
「表情筋がどうのって云うね」
「こうやって顔を真横に傾けると……お肉が下に寄って……」
「あぁ本当だ、こっち側だけ20代の七片だ」
そんな感じで30分くらい盛り上がっていましたが───
「……まぁ、どうでもいいや」
「その一言で台無しだよ!」
───中年なんて、こんなもんです。
- 2015/01/31(土) 23:59:59|
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再び雨です。
人(私)の記憶は当てにならないので過去の天気を調べてみると、
愛知県の昨年一月に雨が降った日は今年と比べて大差がない様子。
一昨年は固く乾いた畑の土を見て「雨が降ればなぁ」と空を見上げたり、
わざわざ導水のある用水路まで水を汲みに行ったことすらありました。
この冬はそうした作業がなかったため雨が多いと感じたわけですが……。
まだ一月が終わっていないので「12月を基準として考えよう」と、
気象庁のサイトで名古屋における12月の合計降水量を検索すると、
思ったとおり一昨年は前後の年に比べて少なかったようです。
降水量のデータって100年以上前のものが残っているのですね。
好奇心から、私が生まれた日の天気予報も調べてみました。
母の話では私が生まれた日の早朝は曇っていたそうですが、
出産後に空が晴れていき安堵したと聞いています。
……その通りでした。
そうか、きっと私は晴れ男なんじゃよ。
- 2015/01/30(金) 21:48:06|
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裏山の斜面をボーっと眺めていて、不意にパラパラと音がしたのを聞きました。
高さ3メートル程度の土が垂直に露出した断面は、山と平地の境界線です。
よく見ると、一部に霜が立っています。
正午に向けての暖気で氷が融け、剥がれ落ちた土が枯れ葉に打ち付ける音でした。
見ている間にもパラパラと崩れていき、土は枯れ葉の中に消えていきます。
ふと、毎年こうして少しずつ崩れているのなら、
ここ十年ほどで何センチくらい後退したのか考えてしまいます。
この山が文字通り削り取られる音を聞いて「この音か」と思った人は、
私より少し手前の位置を見ていたことになり、それは何年前なのか。
あるいは誰も関心がなく、私を見下ろす木々は呆れてすらいるのか。
こういうものを見るたびに、意味はなくとも日記を書いておきたくなります。
- 2015/01/29(木) 23:59:59|
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仕事の一つが無事に完了……してほしい。
今日は風が強く冷え込むので堪らずエアコンを点けました。
地元では積もるほどの雪は滅多に降りませんが、降りそうな気温でも同じなので、
こうなると「寒さ以外の積雪条件が揃わない」のが理由であるような気がします。
何年か前の珍しく雪が積もった夜、裏山に登ったことがありました。
小さな山の頂上には開けた場所があり、そんな天気には誰も訪れません。
足跡一つない新雪の上で、バタンと仰向けに寝てみたことがあります。
ちょうど頬の高さくらいまで雪に埋まり、降って来る雪だけが見える視界。
ボーっと考え事をしている内、さすがに顔が冷たくなって起き上がりましたが、
思っていたより寒くなかったのが記憶に残りました。
雪も降らず風すら吹かないのに、この部屋は寒い。
床下に永久凍土が埋まってるんじゃあるまいな。
- 2015/01/28(水) 23:54:16|
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寒さのせいなのか一昨日から背中の一部(体の中)に痛みがありました。
より正確には広背筋の真ん中あたりで、深呼吸すると息が止まるほどに痛い。
実家で温湿布を貼ってもらったところウソみたいに消えてしまいましたが、
この日、母から「これ着なさい」と渡されたものがあります。
父が着ていた袢纏(はんてん)です。
ここ数日の私は、できるだけ暖房の類を使わずにおります。
私が仕事で利用する空間は机まわりの限られた場所でしかないし、
肘から先しか使わない作業となると、暖房の熱量は大半が無駄になるからです。
意外と防寒具だけでも乗り切れてしまうので省エネに努めたところ、
座布団がわりのホットマットがあれば、ほぼ厚着だけで問題なし。
ファンヒーターを使うのは数分で十分。
ここに袢纏が加わったことで、かなり保温効果が高まりました。
室温が12℃でも寒くない。
「おぉ……これは凄い、手元も自由だし最高」
「本当? お父さんに云っときなさい」
「親父、これ貰うぞー」
仏壇に一言。
返して欲しければ盆休みに云ってくれ。
- 2015/01/27(火) 23:15:31|
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またしても雨。
もう年間の雨量が冬に傾いたのかと思うくらい、この冬は雨が多いです。
私が住むところは水はけが悪いので、いつまでも寒さが続いて良くありません。
そのせいなのか眠っている間も一時間ごとに目が覚めて熟睡できず、
予定では仕事を進めているはずが、あくびを連発しては手を着けられずにいます。
こうなると眠気が飛ぶまで他のことをするか、あえて眠るかの二つに一つ。
いいや眠ってる場合じゃない。
- 2015/01/26(月) 23:59:59|
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仕事に根を詰めていたせいか11時間も眠り続けていました。
昨日の日記に書いたような悪夢は見ず、何度か枕を傾けた程度です。
ここ数日、床に就く時間が不規則だったのが悪かったのでしょう。
昨日は書きそびれましたが、しばらく作業していなかった畑で変化があり、
こんな寒い中でもエジプト豆が芽吹いていました。
意外と芽が大きい。
育てる作物にもよりますが、この時期の畑は変化が少ないです。
他所の畑でも大体は(外側の葉が変色した)収穫待ちの白菜が立つくらいで、
いくつもの作物が育つ季節ではないので、夏に比べると寂しい感じがします。
そんな中、乾いた土の中からポコッと芽を出す作物には輝きがあるのです。
さながら嘆息の出る毎日に吉報を聞くようなものでしょうか。
もうすぐ一月も終わり。
暖かくなる季節に期待するものが増えるのは良いことです。
- 2015/01/25(日) 23:58:58|
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私は年に一度か二度、自分や家族が死ぬ夢を見ます。
大抵は夢の最後で「これは変だ」と気付いて目覚めるわけですが、
気になるのは、目覚める直前まで「現実である」と信じ込ませる強制力です。
脳が体(あるいは脳そのもの)を休ませるための力とも云えそうで、
夢の内容が悪夢であろうとなかろうと一定時間の「あるテーマ」を渡し、
ひとしきり当然の反応に任せておくことで複雑な思考を避けているかのような。
それはつまり長いこと難しい作業に没頭させた後、
休憩時間に単純なことだけを要求するような、緩急であるように思います。
この日に見た夢は母を失うという内容のものでした。
空き地で狙撃でもされたように、うつ伏せで数日は経っていた様子。
現場には警察が来ていて、なぜかその場では私が居て悲嘆に暮れています。
掛け布団をめくるように警官が母を向き直させると、
その形容しがたい表情を見た私の慟哭は更に激しいものとなり───
「うわあぁぁぁぁぁぁ……あ・あれ? なんか変だって思って目が覚めた」
「あっはっは、それは私が元気でいるってことね」
───話して聞かせた母には笑われてしまいました。
こうした夢を見るのは家族への帰属意識が強いからでしょうが、
特徴的だったのは、これが現実であるならば数週間は泣き暮らすようなものを、
感情が長続きしないというか、泣きたい気持ちが数秒で消えてしまうことです。
そこはやはり「あるテーマ」が即席であるせいなのか、
強烈なイメージをもって一瞬で気持ちを掌握する力こそあっても、
そこは映画を観るようなもので、現実と入れ替えるには脇が甘いような。
我が家では「夢の中で死ぬことになった人には良いことが起こる」としています。
つまり今回の場合は母に良いことがある……ということになりますが、
私だけが一方的な不快に捕らわれて面白くない。
女神様が耳掃除してくれるとか、そういう夢が見たいんです。
- 2015/01/24(土) 23:48:02|
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夜になってからコンビニへ行くと店員さんがおらず、
バックヤードにでも居るのだろうと思いカウンターに品物を置くと、
その奥にある引き戸が僅かに開き、こちらを見ている顔がありました。
「はいはい、もう分かったから」
「い、いらっしゃませぇ」
───三十路に爪先を突っ込んでいる、よく話す店員さんです。
「クレームを入れるか……『ある店員さんが毎回ツッコミを要求します』とか」
「寂しいんですよー!」
「『毎回ボケに反応するのも辛いんです』とか」
「え~……三時まで一人なんですよ……」
お客が来ない時間を持て余す店員さんは、なんというか気の毒です。
- 2015/01/23(金) 23:59:59|
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またまた雨です。
普段から天気予報を観る習慣がない私は耳で気付くことが多く、
タイヤに雨水を巻いて走る車の、シャーッという音でカーテンを開けます。
雨で思い出しましたが、長いこと仕事作品の更新を滞らせている中、
先日リリースされたTCGカードイラストが「鉱石で出来たアメフラシ」でした。
この調子で、あと何種類の動物要素を持った怪物を描くことになるでしょうか。
こうして見ると、2歳の時から始まった私の絵描き人生において、
学生時代にこれだけ動物の"部品"を扱ったことがあったろうかと考えます。
そして「意識していなかった」とするのが正直なところです。
私は可能な限り動物の要素を正確に再現するよう努めておりますが、
知識がなかった場合を除き、怪物化にあたって色々と添加が必要になります。
その際、結果として部品の再現性を損ねることが問題です(5日の日記)。
かと云って執着しすぎると今度は面白みを損ねるので、
あえて「意識していなかった」頃の自分の感性を知りたくもなります。
半端な知識で描いて満足していた自分が辿り着き得た、一つの終点です。
でも昔の絵って見たくないんだよなぁ。
- 2015/01/22(木) 23:47:24|
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夢の中で、どんな経緯からかブレイクダンスを踊ることになっていました。
運動不足で中年の私が踊れるかどうかは考えるまでもありませんが、
こうした夢での出来事の常として、体が思うように動きません。
夢の内容を憶えることが出来る人になら、
走りたいのに足が鉛のように重い───などは経験がありそうです。
睡眠中の脳と体で交わされる信号のやり取りに理由があるのでしょうが……。
この夢の中の私は、必ず"右足を左足に引っ掛けて"体勢を崩していました。
私の利き足は右なので、失敗する可能性は低そうな感じもします。
否、利き足でない左が文字通り「足を引っ張る」のか。
今の中学校はダンスが必修科目であるらしいですが、
私が中学生だったなら、やはり右足を左足に引っ掛けるのでしょうか。
フォークダンスなら、むしろ相手の足を踏んづけそうです。
- 2015/01/21(水) 23:58:44|
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部屋の片付けをしていた実家の母が「やっと見つかった」と安堵していたので、
何かと思ったら、私が給料日に買ってあげた腕時計でした。
私が買える程度のものですから、さして高くもありません。
我が家では、誕生日等に高額なものをプレゼントするのは禁止です。
そのため───
・貰えるなら欲しいけど自分では買わないもの
・気にしつつも買わず終いだったもの
・笑いをとるためのもの
───といった、渡す側も渡される側も気軽でいられるものが理想。
家族同士で見栄を張るような真似はしないという考え方です。
欲しいものは己の労苦にて勝ち得ることを信条とします。
ともかく、家事をしていたかと思えば畑に出たり仕事をしたりと、
あくせく動き回る母は身軽で居たいのが本音であったようで、
アクセサリーの類は身につけない種類の人でした。
そんな母が「畑では手が汚れるから携帯電話の時計は確認しづらい」と、
ぽろっと口にしたことを切っ掛けに私が贈ったものでした。
「無くしたら怒られると思って黙ってたのよ」
「その程度で怒りゃしないよ、まぁ僕も母さんに貰ったやつは残してるけど」
「ライターだっけ?」
「ちがう、腕時計。 電動歯ブラシは仕方なく処分した」
「……歯ブラシなんて上げたっけ?」
「大事にしようと思って使う回数を控えてたのに、急に動かなくなったから」
使わなくても故障するものってありますよね、パソコンのDVDドライブとか。
- 2015/01/20(火) 23:56:28|
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殆ど眠って過ごしていました。
年明け前からの大きな予定は昨日の用事が最後だったので、
ようやく私にとっての「いつも通りの生活」に戻った感じがします。
この冬場の寒さと長時間の眠りで"来る"ものは、腰の具合の悪さです。
より正確には、腰まわりの筋力が衰えているとするべきでしょうか。
起床前の数分間、くねくねと"フラ(フラダンス)"の腰つきが必要になります。
ここ数年、加齢で弱っている母との間での「筋肉の重要性」については、
とくに膝を痛めていた母が畑の作業を続けたところ回復する等、
二人して運動不足を痛感させられてばかりです。
そんな中での「起床前の腰振り」は効果が大きいようで、
どうしようもなく重い腰がヒョイと起き上がれるほど軽くなります。
布団の中でモゾモゾと蠢く男の姿は、傍から見ると凄まじく気味が悪そうですが。
- 2015/01/19(月) 23:59:59|
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今日は色々とやることがあったので疲れました。
あるお店に知り合いが勤めているため声を掛けようと思ったところ、
残念ながら本人は病欠でしたが、同僚の方によれば評判も良い様子。
ただし頑張りすぎなので、それが原因の病欠ではないかと心配もしていました。
ここ数年、誰それの回転数が上がりすぎて体調を崩す話を聞くことが増え、
それは世代に関係なく、全体が「そういう傾向」にあるような。
そんな中での私は、冬の寒さに坊主頭を続ける勇気が出ず、
みっともない白髪を染めるのもガラではないということで、
もう面倒になって髪を切るのは中止しました。
「そっちのほうがいいわ」
すると母も灰色の頭を見て切れとは云いません。
あなた人の坊主頭を散々ジャガイモ呼ばわりしたでしょうに。
昨年から、少しずつ自分の中にある何らかの"当たり前"を崩すよう努め、
十年という仕事の節目に、一つの成績表を作りたいと思うようになっています。
がむしゃら・駆け足・一心不乱もいいけれど、まだまだ先は長いのですから。
苦労のほどが白髪の数で決まるとは思いませんが……白くなったなぁ、頭。
- 2015/01/18(日) 23:42:33|
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洗車に行きました。
以前から洗車は殆ど私の役目みたいになっています。
そんな本日、若いご夫婦が二人で洗車しているのを見ました。
羨ましい光景です。
ところで私が「**曜日に洗車しよう」と決めた日は天気が悪くなります。
・そもそも朝から雨が降っている。
・洗車している最中に雨が降り始める。
・やたらに風が強く洗う端からゴミが飛んできたりする。
経験では三番目が多いです。
そんなに私が洗車するのは珍しいことなのでしょうか。
- 2015/01/17(土) 21:43:29|
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愛知は「東京と大阪の真ん中あたりにある」という理由から、
ここを通過する様々な言語(方言)が混ざり「どっちつかず」となって、
関東と関西をごちゃ混ぜにしたような言葉だ───なんてことを聞きます。
現在でもそう思われているかは別にして、急に思い出した言葉がありました。
爪を立てて引っ掻くことを指す「ばりかく(ばり掻く)」という方言です。
「ばり」は他県でも「とても」とか「すごく」といった意味で使われ、
そうすると「めちゃくちゃに引っ掻く」という意味にも取れそうですが、
子供の頃「猫のようにバリバリと引っ掻く」を縮めた形だと理解しました。
ここで不思議だなと思うのは、では「引っ掻く」と聞いた時、
子供だった私は、別段「ばり掻く」とは使い分けていなかったことです。
私の両親は関東生まれと九州生まれで、暮らしているのは愛知。
その間に生まれた子供として両者の方言を聞く機会があった上で、
かつ愛知の方言も取り込むため言語には頓着しなかったのでしょうか。
そんな現在の私は方言が好きなり、ここ何年かで聞いた方言では、
「何にすう」とか「どげんすう」の「すう」が好きです(福岡とか長崎?)。
似た響きから推測したり言葉を組み立て直して理解するのは楽しいですね。
- 2015/01/16(金) 21:40:45|
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また雨です。
昨年の夏は雨が多いと思っていたら冬になっても雨が多い。
うっかり予報を見ずにいて、洗濯物を干した意味がなくなること数度。
自宅で仕事が出来るのは便利である反面、天気に対する危機感が薄れます。
その雨のせいかは不明ですが、トラックが自宅前でアイドリング状態にあると、
私の部屋に吊り下げている蛍光灯から振動音がすることに気付きました。
無駄に大きい窓ガラスが室内の空気を揺さぶるらしいです。
音と云えば、私が独り暮らしを始めて「何ごとだ?」と怖くなったのは、
夜中に外から聞こえて来た、しゃくり上げるような男の泣き声です。
その正体は、酔ってベランダで泣きながら電話をしていた近所の男性でした。
私は酔って誰かに電話をかけたりはしないので、
その点だけは自分を褒めたいと思います。
そう云えば、私が酔った時の変化は何なのか。
飲酒は一人酒に努めているため、どう変わるのかを知らないのです。
嫌なことを思い出して毒づきたくはならないし、愉快な気持ちにもなりません。
素面のまま反応が鈍くなって強烈な眠気に襲われる───までを自覚できます。
一度だけ、よろめいて咄嗟に手をつこうと引き戸に触れた時、
かなりの速さで腕が動いて引き戸にビンタを食らわせたことがありました。
振り抜くことなく手が止まったため、翌朝は手が腫れたように記憶しています。
「力の加減が出来なくなる」ということなのでしょうか。
いずれにしろ今後も人前での飲酒は避けよう。
- 2015/01/15(木) 21:01:36|
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年が明けて2週間です。
体調が悪かった母の様子を見に実家へ行き、帰る時になって玄関を出ると、
引っ越した当時から親交のある近所のママさんが、お子さんを連れていました。
彼女は、長男、長女、次男の三児を育てているわけですが、
いつもは長男が顔負けするくらいに活発だった長女さんは、
昨年の末あたりから私を見ると親の影に隠れようとします。
・子供の目線まで姿勢を低くして話しかけてみる───ダメ。
・怯えないよう少し声を高くして話しかけてみる───ダメ。
・おどけてみる───ダメ。
……無理か。
それでも怖がっているわけではない様子。
大概、私は子供に怖がられる人間です。
泣いた子が私を見るなり黙るほどの面相とは云え、
笑顔を向けてくれた昨年が嬉しかっただけに、これは悲しい。
「あらぁ、人見知りするようになっちゃったわね」
傍らに居た母が、そう云いながらママさんと会話を続けます。
私は、いわゆる人見知りが乳児期だけにあるものと思っていましたが、
後に調べた結果、立って歩けるようになってからも認められると知りました。
そうして諦め残念に思っていると、帰り際には笑顔で応えてくれました。
我が子でなくとも、子供の笑顔は力をくれるものらしいです。
- 2015/01/14(水) 23:59:59|
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弟の彼女さんから手作りリンゴケーキをいただき、実家で分けました。
私はアップルパイ等のリンゴを使ったお菓子が好きなので、
仕事中に夜食として食べるつもりだったのに、つい全部。
夜に仕事をするようになって大概は食生活がずれておりますが、
頭を使うせいなのか「何か食べたい」と「甘いものが欲しい」に分かれます。
初就職した頃、やたらに甘いものばかりが欲しかった時期に似ているかも。
問題は、その当時とは違って体重が増えることです。
そういえば健診を終えてから一度も体重計に乗っ……たよな、たぶん。
- 2015/01/13(火) 23:59:59|
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調べものをしている最中、小学校の思い出について触れている記事を見ました。
その記事の内容そのものは別として、私の地元は子供時代とは様子が変わり、
あったはずの建物がなくなり、なかったはずの建物が増え、近所の顔ぶれも然り。
そして「名前は知らないけど一緒に遊んだことがある子」も見かけません。
ふと、この「一緒に遊んだことがある子」について考えました。
その日だけ一緒に遊び、翌日からは会うこともなかった子です。
それは大体が同級生か下級生だったように思います。
私は何年かに一度、本棚の資料を引き出す時に卒業アルバムも見返しますが、
その中の顔ぶれには下級生が含まれないため、もう本当に誰だか分かりません。
こういう場合、当時に改めて「あれは誰だったのか」と疑問に思わなかったり、
あるいは次の日になって他の子と遊んでいるのを見たので誘わなかったりと、
何らかの理由で離れたことが原因になっているのではと考えます。
それは小学校の時分だけかと思えば、私の場合は中学生時代にもあって、
たまに目が合ったりすると「よう」と挨拶を交わして話す同級生が居ました。
かなり長いこと互いの名前を知らず、改まって自己紹介を交わしてすらいます。
彼と卒業後に出会うことがあるかと思えば、そんなことは全くなし。
奇妙な出会いだった割には、何のきっかけにもなっていません。
こういう、一時的に引き合う磁力のようなものは何なのか。
子供の受容欲求には特殊な親和性みたいなものがあって、
それは成長に伴って線引きや住み分けが確立されるのでしょうか。
その親和性が消えるから確立されるのか、他の何かが入るからなのか。
人によっては小学生時代からの長い付き合いであったりしますし、
かたや高校時代や入社後に出会って、数十年来の親友になったりと色々です。
してみると、歳の近い者が集まる学校や会社という環境がそうさせるのか。
時々、もし自分への"影響"を細大もらさず記した「神様の手帳」があったとして、
あの頃に一度だけ遊んだ子供が、今の私に何を与えたのか知りたくなります。
一度だけ広場で野球をした子。
一度だけ暗くなるまで鬼ごっこをした子。
一度だけ公園の近くで拾った玩具を取り合った子。
彼らの顔が思い出せません。
ややもすれば「本当に存在したろうか」と、子供の姿をした幻にも思えるのでした。
- 2015/01/12(月) 23:59:59|
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新成人の方々、成人おめでとうございます(日付が変わってから云う)。
朝まで仕事をした後は眠っていたため、昼間の様子は知りませんが、
夜になってスーパーへ行くと二次会で酒が入ったであろう新成人も入ってきて、
陽気で笑顔の絶えない彼らの空気に、なんとも賑やかな店内になっていました。
毎年この時期になると、自分が成人した年のことを思い出すと同時に、
遠い遠いと思っていた大先輩の年齢が、すぐそこまで来ていることを感じ、
いつ頃から「一年間って短いな」と思うようになったのか考えてしまいます。
この「一年は短い」とか「季節が巡るのは早い」といった感覚は、
残念ながら過ぎてしまわないと実感できず、前もって出来るのは覚悟や準備だけ。
それも事に当たって十分であることは少ないので、何かしら不足を感じるものです。
ふと、後悔のない人生って何だろうと自らに問います。
「後悔すまい」と諸事を飲み込んでしまう人生のことなのか、
「後悔しないように」と方々に手を尽くし擦り切れてしまう人生なのか。
若かった頃の自分に、「しょうがねぇなぁ」と苦笑いをくれた人生の先輩を思う時、
私にとって後悔のない人生とは、あの苦笑いに邪心なく白旗を揚げることくらい。
指導を受けられる環境こそ幸福であると、自営業10年目にして思うのでした。
- 2015/01/11(日) 23:59:59|
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母の体調が良くない時、大抵は私が夕食を用意したり洗い片付けをします。
昨夜はその通りで、母は夕食も食べず朝まで眠ると云っていましたが、
さすがにお腹が空いたのかホットミルクでも飲むことにした様子。
「少し砂糖でも入れるわ」
「砂糖はそこ」
電子レンジで温め湯気の立つ牛乳が入ったマグカップを手に、
洗い片付けをしていた私の傍らへ母が近づいた時でした。
お砂糖の容器を取ろうとした母は、マグカップを持った手から注意が離れ───
[ボタボタボタ……]
「あっつ! あっつ! 熱い!」
「え?」
───洗い物で手元が塞がった私の足に熱々の牛乳がこぼれました。
「熱いって! ちょっと離れて!!」
「え? え?」
ここで私は「足が熱い」と云うべきなので、急に云われた母も混乱します。
母に離れてもらおうと手をやると、マグカップを持った左腕に触れ───
[ボタボタボタッ]
「あぁぁぁぁぁ! あつあつあつ! 牛乳! 牛乳!」
「牛乳?! あぁ、あは、あっははははは!」
───さらに牛乳がこぼれます。
「うあー……熱かった……」
「火傷してない?」
「たぶん大丈夫だろう」
大声を聞いて心配して来たのは妹でした。
なぜ笑う、母。
- 2015/01/10(土) 20:45:26|
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久し振りに畑へ行って見ました。
冬の畑は夏季と比して「やれること」が減ります。
寒さで作物の生育度が低下するのは雑草においても同じことなので、
夏のように矢継ぎ早で生えることはなく、その意味においては少し楽です。
そして何より(とくに被害の多い私が)助かることとして、蚊が居ない。
また、冬の寒さは越冬できない昆虫を締め出すことも出来ます。
昨年は設備に投資し、初めて単価というものを意識した一年でもありましたが、
今年からは種まきや苗を植える時期が遅くならないようにしたいです。
種苗店の一つが減ったので次の候補も探さなくては。
う~む、市内に大きな店が出来ればなぁ。
- 2015/01/09(金) 23:27:40|
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私はブログのほかに個人用日記を書いているため日々の日記は二つあります。
後者は来月でようやく二年目と、やはり長いのはブログになりますが───
・1999年の七月からサイト日記開始
・2010年の五月にブログ化
・2013年の二月から個人日記開始
───このようになっており、ブログ化前にも十年分の日記があるわけです。
ふと思って日記のデータ容量を見てみました。
ただしブログ化する前の日記は整理しておらずHTMLデータなので、
容量として分かりやすいのはテキストで起こしているブログ用日記になります。
・2010年分……合計348KB
・2011年分……合計394KB
・2012年分……合計415KB
・2013年分……合計324KB
・2014年分……合計322KB
一年で概ね300KBくらいのようです。
300KB分の文字って全角文字なら何文字くらいなのだろう……と思い、
ちょっと調べてみたところ、全角ならば512文字を打てば1KB分に相当するとか。
つまり───
・100KB……51,200文字
・300KB……153,600文字
───となりますので、年度別に出してみました。
・2010年分……合計348KB (178,176文字)
・2011年分……合計394KB (201,728文字)
・2012年分……合計415KB (212,480文字)
・2013年分……合計324KB (165,888文字)
・2014年分……合計322KB (164,864文字)
・2010~2014年の合計……923,136文字(92万3千136文字)
わぁ。
数字やアルファベットは半角で打つことが多いため不正確ですが、
92万文字って私が社会人になってから書いた文字数より多そう。
じゃあブログ化以前の十年分は?
誰か100文字につき一円ください、これから。
- 2015/01/08(木) 23:28:48|
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夜に仕事をしていて問題になるのは冬場の寒さです。
日中の暖気を期待できない以上、ファンーヒーターに頼らざるを得ませんが、
低めの温度の設定しても大した節約にはならず、あっと云う間に灯油が尽きます。
私は椅子の上で胡坐(あぐら)をかいて仕事をしていて、
寒さ対策として座布団サイズのホットマットを使っているのですが、
くるぶしと尻だけが熱く夜の寒さを乗り切るには熱量が───
───と思っていたところ、そうでもないことが分かりました。
原因は私の胡坐で、マットとの接触面積が少なく足全体が温められない様子。
それではと云うことで、胡坐をかくのはやめて普通に座ってみました。
太ももで温められた血液が爪先へと流れ、足全体から寒さが消えます。
こうなると足に軽く毛布でもかければ何も問題ない。
早く気付けば……と思う反面、胡坐に慣れているので作業がしづらい。
しかし、ぎっくり腰を避けるには胡坐をやめるべきとも云われました。
三度目のぎっくり腰ばかりは姉も許してくれそうにないので、どうにか慣れよう。
- 2015/01/07(水) 23:26:36|
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年明けから一週間と経っていないのに、早くも新年らしさを欠く日常です。
今日が「年明けから二ヶ月後」だと云われても違和感がありません。
休みボケするほど休んではいなくとも、とかく世間は忙しい。
昨夜、コンビニで働いている知り合いの小母さんと話しました。
「今年のお正月、なぁんかバタバタする感じねぇ」
「休みが短いからかも……来年なんかも一月三日が日曜になってた」
「そうなの?! えぇ~、更に短くなるの……」
2016年で最初の日曜では一月三日になっています。
さすがに大抵の会社では五日くらいまで休みを設定しそうなものですが、
私は、年末年始の休みが大晦日の朝から元旦の夜までの人を知っています。
<もう三月か、年が明けてから二ヶ月も経ったとか信じられん>
<暑いなぁ、今年も半分が終わった>
<寒くなってきた……今年の正月って何してたっけ?>
だんだん一年間が短く感じられていきます。
100歳にとっての一年間は人生の100分の1。
歳をとるほど短く早く過ぎていく。
そりゃあ、中年のお屠蘇気分なんて数時間で終わるわけですよね。
- 2015/01/06(火) 23:11:43|
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仕事(怪物)の絵を描く上で、とても悩むことは「もとの成分」の扱い方です。
成分とは、例えば半人半馬の怪物であれば人間と馬にあたり、
巨大な鳥の怪物であれば鳥の体躯にあたります。
実在する動物が下地である場合、部分的または雰囲気的に成分を再現するわけですが、
「これは怪物である」とする以上、実在する動物から色々なものが増減されます。
成分の再現度が高いと実在に近づき、低いと空想が過ぎてバカバカしいわけです。
ここで例として「ネズミの怪物」を考える時、
実在するネズミを超越する要素として分かりやすく"筋力"を選んだ場合、
単純に筋骨隆々のネズミを描き、人間を襲う次元であることを演出できます。
しかし実際の体つきを重視しすぎると「普通のネズミを拡大しただけ」となり、
これも怪物であるかどうかには寄与せず、これは失敗となります。
さて何を悩むかと云うと、怪物を作るにあたって「成分を無視する加減」です。
人間を襲うほどのネズミを描くにあたって、どこまで無視が許されるか。
「ネズミの怪物」に、ネズミには不可能な姿勢や不自然な体つきは「あり」か。
もちろん基準は誰にも作れないし「基準がないこと」自体こそ怪物ですが、
より実在動物に近い怪物である場合、どうしても考えてしまいます。
「これは怪物だから良いのです」では乱暴すぎることもあるからです。
怪物なら何でもあり……な感じもしますが、実はかなり繊細なのかも知れません。
- 2015/01/05(月) 23:49:30|
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実家で夕食を摂った時、お豆腐の味噌汁が出ました。
少年時代は「何が良いのか分からない」と思っていた豆腐ですが、
なぜか中年を過ぎてからは堪らなく好きになった食材です。
歳をとってから「美味いなぁ」と思える食材が増えるのは良いことだと思います。
早く気付くに越したことはないでしょうが、そう思えるまでが長いほど、
何とも思っていなかった食材が与える感激は大きいと思うのです。
そうした食材の中で私にとっての"最初"は「魚の粕漬け」で、
この風味は父が晩酌をしながら楽しむものであったため、
長らく酒に理解のなかった私には「楽しめない味」でした。
それが中年になってから食卓で父に勧められた時のこと、
「なんだこりゃ、美味いぞ」と。
恥ずべきことかは分かりませんが、私は未だに酒が美味いと思えません。
寝つきが悪く、脳が考えることを止めてくれない日が多い私にとり、
現在においても「何も考えずに眠るための手段」となっていて、
ほとんど鼻を摘んで飲むようなものになっています。
それでもアルコールを摂り込んだ体が欲するものは普通の人と同じで、
呑み助で塩気ものを好んだ父の味覚に近づいたことが理由なのか、
あの夜に「粕漬けって美味いな」と思った感激は大きいものでした。
好き嫌いは少ないほうが良いものの、その反動の大きさを楽しむのも一つ。
これをもっと早く知っていれば、父と酒と酌み交わすこともあったでしょうか。
ぶん殴られてでも教えてもらったほうが良かったのかな、これだけは。
- 2015/01/04(日) 23:51:35|
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昨年から独り暮らしをしている友人に新年の挨拶をしました。
初めて一人で年を越した彼の三が日は、予想通りの寝正月だったとか。
私はと仕事をしたり実家の用事に付き合ったり、姉と話したりと色々です。
今年は昨年や一昨年とは違い正月休みが短く、来年は更に一日短いようで、
舵取りの難しい自営業には緊張感があって良いかなと思っております。
話は変わりますが、私は昔から地理や各地の名産を憶えるのが下手で、
県庁所在地はおろか日本地図を正しく記憶できていませんので(関東が苦手)、
自宅に県名と県庁が記された地図を貼って憶えようとしているのですが……。
姉と静岡の話になった時、数時間前に妹と外出した際の話をした時のこと───
「そう云えば、さっき前を走ってた車が浜松ナンバーだったよ」
「浜松ねぇ、広いからね」
「静岡の県庁って浜松だっけ」
「静岡市よ?」
「えっ?!」
───こんなことがありました。
この時、さっと頭の中に現れたのが上記の日本地図です。
記憶の中では静岡県の中に記された丸い印に「浜松」と書いてあったはず。
「静岡市よぉ」
「え? あれっ?」
その数時間後に帰宅して例の地図を見ると、姉が正しく私は間違っていました。
私は、あの地図の何を見て浜松という名前を引き出したのでしょうか。
愛知県で浜名湖自動車学校のCMが流れることとは……無関係ですね。
もう間違えることはないと思います……姉さんありがとう。
- 2015/01/03(土) 23:46:08|
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実家で食べた雑煮が私を魅了して止みません。
三が日で体重が5キロ増えても後悔しないくらい美味しかったです。
夜になって妹が「今日はアレをやります」と云いました。
「アレって何だ」
「炬燵(こたつ)で……」
「あぁアレか、ははははは」
昨年末、私は妹に「あるもの」を渡しています。
「とうとう野望が叶います……あ、お茶がない……」
「何をやるのよ?」
「野望」
「何が野望なの?」
渡したものはミカンと煎餅。
母一人だけ頭にハテナを付けていました。
「『炬燵に入って煎餅とミカンを食べながらテレビを観る』ってやつ」
「あぁ……なんか云ってたわね」
「今、お湯を沸かしてるぞ」
"絵に描いたような冬の一場面を体験する"のが小さな野望だったそうです。
煎餅があってもミカンがない、またはその逆、あるいは忘れているなどして、
意外と条件が揃わずにいたところを、私が買い揃えておいたのでした。
「───それで、これは実家じゃないとダメなんだよねぇ」
「だろうな、夕方あたりなんかもいいな」
「誰かの家でやるのは、こう、違うんだよ~」
お正月の過ごし方は人それぞれでしょうが、今夜はこんな感じでした。
- 2015/01/02(金) 23:48:23|
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